平原君和 1972年生 神奈川県出身 渋谷横丁「北海道食市」副料理長
1990年と言えば、日本中が未曽有の好景気に沸いた“バブル期”のピーク。当時、18歳の彼は中国料理シェフを志し、日本を代表する婚礼ホテルに入社。
「当時は、婚礼も豪華絢爛を競い合うかのような時代で、シェフの皆さんは高級食材を惜しみなく贅沢に使用した豪華な料理を時間に追われながらも必死で作り続け、見習の私は広い厨房で毎日、飛び回っていましたね(笑)。」
ホテル退社後も一流と呼ばれる環境で技術を磨き、各方面からのオファーにより数々の新店を料理長として立ち上げてきた。
「バブルが終わり、不景気になると飲食業界も高級志向から“カジュアル志向”に変わり、“○○で修行を積んだ料理人の味が気軽に味わえる”というコンセプトの飲食店が流行り、私にもたくさんのオファーが来ました。私も性格がカジュアルなので(笑)、断らずに色々チャレンジしてきましたが、業態の敷居が低い分、同じようなお店も沢山できて潰れたお店もありましたね。」
バブル崩壊、2度の大震災、リーマンショック等、90年代以降激動の時代を料理人として飲食業界と共に生きてきた彼が、令和になった今、最大の難局とも言える“コロナ騒動”の中「渋谷横丁」と出会い入社。
「料理人として無我夢中の約30年。一流と言われるホテルから始まり、町場のカジュアル店、温浴施設のレストラン等、色んな場所で働いてきましたが、コロナ禍で改めて自分を振り返る時間が出来て、ふと『これから自分にできることは何だろう』と考えたんです。最終的には独立開業が目標ではあるんですが、その前に『一料理人として次の世代に技術を伝えたい』と思い始めたんです。渋谷横丁は毎日若いお客さんで溢れていて、若いスタッフが手作りで料理を提供しています。中でも『横浜中華街食市』は中華のスタンダードがメニューに並んでいます。面接では『更に美味しくなれば、レシピを変えてもいい』とお聞きし、『ここなら、私が役に立てるんじゃないか』と思いました。
「そしてもう一つ、中華の料理人として『中華料理の技術は和食にも洋食にも活かせる』という事も証明したかったんです。
通常、専門料理人は専門外の調理を拒否する者が多いが、彼は率先して他店での調理も引き受ける。
「頼まれたら断れないという性格もあるんですが、この年で若い方に求められるって嬉しいじゃないですか(笑)。『渋谷横丁』は全国のご当地料理や産直の素材を前面に出したシンプルな料理が多く、ジャンルを超えた料理に経験が活かせるのが楽しい。若い人がそんな姿を見て『中華料理をやってみたい』って思ってくれたら嬉しいですね。それが中華料理への恩返しです。もちろん、若いスタッフに向かって偉そうに『教えてやる!』なんか言いません。すぐに嫌われますからね(笑)。それよりも、私が動く姿を見て『教えて欲しい』と言われるのを待っています。何でも教えますよ。今、ここで働いてみて、改めてずっと現場で働いていたいって感じています。
卓越した調理技術を持ちながら、決して偉ぶらない謙虚な姿勢と、自ら周囲を明るく盛り上げるキャラクターを持ち合わせた彼の周囲で働く若いスタッフはいつも笑顔で溢れている。